三島由紀夫 2010/12
この表情は後半生で多く見られる。
遠くを見つめるような鋭い視線。
異様なほどの光を感じさせる。
壮絶な死を予感しているような。
死後だからそう見えてしまうのか。
眉も濃く、男性的な風貌。
本人が憧れ、目指した侍のよう。
しかし元々強面だった訳ではない。若き日は青白き文学青年。
本人が認めるところの文弱の徒。体位体力も貧弱、軟弱だった。
だが青年期末期に剣道をきっかけに肉体的美意識に目覚める。
身体美学では美意識だが、彼は肉体的教養と表現した。
日本のインテリはそれがまったく欠落していると批判した。
自身貧相な肉体は恥と感じて、改善に励む。
同時に陽明学や、葉隠れ(武士道)に傾倒していく。
文弱の徒から一転して、文武両道の行動派作家に変貌していった。
下の左右の画像は象徴的にそれを表している。
今年は没後40年。だが未だ死の衝撃は冷めやらない。
戦後最大級の事件の一つであろう。
今なお三島論はあふれかえっている。
その後の日本は彼の予見通りになった、とも言われる。
曰く魂のない経済大国。だが今や経済すら危うくなってきた。
民主党政権下で国家の矜持や安全保障は惨憺たるありさま。
経済成長していた当時より万事状況は悪い。
筆者が痛感するのは、意見の主張に対する指摘。
民主主義(戦後がつく?)では誰でも意見を主張する権利がある。
その結果誰もが実に気軽に意見を主張するようになった。
だが言葉に対する責任などまったく自覚していない。
ろくに知りもしないのに平気で分かったような主張をする。
自分の愚かさを宣伝するようなものだが、自覚がないので恥じない。
極論すれば一億総評論家になったかごとき様相だ。
ウェブのような匿名の空間ではさらに拍車がかかる。
恥を知らない愚論があふれかえっている。
まともな人は三島でなくても鼻をつまんで通りたくなるだろう。
あの時でなくても、どのみち彼は自決したのかも知れない。